恋塚(伝説と碑の記録)

建立当時の恋塚

建立当時の白浜海岸と恋塚(昭和25年頃)

恋塚の由来と二つの悲恋伝説

「構居鑑」に恋の浜構居とある場所は一体どこなのだろうか。八幡神社東北五丁の小字・城の元とも、白浜海水浴場入り口の"恋塚"(昭和25年5月8日、白浜郷土文化顕彰会が建立したもの)とも論議の分かれるところである。恋の浜構居の領主は三木兵部少輔通重、永享3年(1431年)讃岐国より入部、嫡男・通武英賀城に移りて退職すーというのが「構居鑑」の記事である。

 恋の伝承にも二説あり、一説は英賀城の姫君と八正寺の僧侶との添いとげることのできない悲恋の末路のあわれさを、木場坂の"袖もぎ地蔵"と結びつけ、二人が手に手をとって道行の途中、ここで追手に捕まったというもの。

 もう一つは、源氏に追われて壇ノ浦へ逃げる途中の平家の公家の一人が、松原に逃れてきて八正寺に身を寄せた。その公家と村の漁師の娘との間に恋が芽生える。何年かののち、源氏も亡び、公家は京都から使者を迎える。もとの官位官職で召しかかえる、というものであった。松原でのわび住いに飽きていた公家は、即刻、都へ帰る用意をする。娘には別れも告げず、船を仕立てて松原の浜から船出した。追ってきた娘は岸をすでに離れた船を見て歯噛みし、前の海に身投げした。そのとき、片袖が松の木に引っかかってちぎれる。恋の浜"片袖の松"というのはこれであるという。

 残念ながら前説も後説も実証資料がない。後世の人の作話にしても、後説の方がロマンがあるので、顕彰会も後説に頼り、海辺に碑を建てたものと思われる。建立当時の白浜海岸にはまだ松林があった。海も美しかった。美しい風景は伝説を生むのである。

(出典:灘の喧嘩祭り絵巻)

令和元年現在 恋塚の現況(丸田運送敷地内)