恋の浜城(松原構居)
城郭・構居の概要
- 名称:恋の浜城(別称:松原構居・恋の浜構)
- 所在地:白浜の宮駅北東、宇佐崎と中村の隣接部(字「城ノ元」)
- 起源:康暦2年(1380年)三木通近による築城
- 歴代城主:三木通近、三木通重、通武(三木氏)
恋の浜構(松原構居)の所在と由来
この粋な名の構、こんな名の城は、兵庫県はおろか、全国的にも例を見ないのではないか。恋の浜構の所在について、城郭全集には、英賀の海浜にあてた記事があるが、以下、多少その所在を探究してみよう。
播磨鑑によると「恋の浜、松原の別名、領主は三木兵部少輔通重、永享三年(1431年)十二月二十日、讃州より入部、嫡男三木兵部少輔通武、英賀の城へ移る」という記事がある。現在ある古記事では一番信用してよい文章と思う。とすると、これは、現在の白浜松原神社の近くに考えなければならない。松原神社は、平安中期頃から、京都南方の石清水八幡宮の松原庄のあった地で、石清水八幡宮の別宮としては、この播磨国では魚吹八幡宮と共に古文書に早くから記録されている地である。姫路付近には「生の松原」という地名が中世末に出てくるが、単に松原というと、白浜の地を指していると見るのが一番妥当だと思う。
つぎにその位置だが、飾磨郡誌に、領主は妻鹿孫三郎の幕下松下掃部介一文和頃(1352〜55)の人ー、位置は「松原神社東北五丁字城の元」と古城志を引いて記している。これも妥当な記事であろう。ただ、恋の浜という名称が何に由来しているのか、わからない。三木氏の系図中に「恋の浜八幡宮」という文字があったり、或る時期には一般化していた呼び名かもしれないと思われる。太平記の妻鹿孫三郎も実在の人物であることは、最近、東寺文書で確認できる。
城主のうち、後期の三木氏について、すこし英賀日記の記事から話を付記して恋の浜構の文のしめくくりをつけてみたい。三木氏の最初の通近は、元来、伊予国(愛媛県)の名門河野氏の一流で、浮穴氏を称していたが、細川氏に攻められ、所領の讃岐国(香川県)三木より播磨国に逃れて来て、赤松氏に頼った。赤松氏は、通近とその子通重をこの恋の浜城に居住させた。通近は間もなく死に、通重が主として活動したが、松原神社本来の興業で当時中断していた競馬の行事を復活させたことが伝えられている。その後、通重が京都在住中、部下の葛井源内が、頼足八十郎と争い、その際、恋の浜城は焼失し、通重の妻子は飾万津の光明寺に避難した話がある。その後嘉吉九年、有名な嘉吉の乱に、赤松祐尚に加担したため、彼は赤松一族と共に、灘野の亀の山城に滅亡した。この乱に、英賀の赤松も滅んで通武が英賀を与えられ、彼は山名氏の配下に入った。恋の浜城は、その後も二代程城主があったらしいが、以後はわからなくなってしまった。


備考:競馬(比べ馬) (飾磨高校 内海十郎) 灘中学創立二十五周年記念誌
戀ノ濱構居の地勢と伝承
一、松原神社東北約五丁許、字城ノ元といふ二町歩餘の地あり。一部分は周囲よりは稍高く、石垣の跡あり。其周囲に丸町、筒れ、三の坪、三斗長、西琵琶、東琵琶、長畑、今道、菖蒲池、大上根等の地名あり、合して約十町歩あり。城ノ元は、昔城のありし地にして、周囲の地は其構内の地にして、大上根は軍の勢揃ひをなせし所、菖蒲池は菖蒲池のありし所、筒れは武具を蔵せし所等の話を説き得(る)者あり。
更二、之等の地先より八幡社前入江の東北隅に渡り土手あり。之より神社の方向を社地と称し、其中は社武士の居住せしものにして、昔は其領千石千貫と称し、千石は白濱より所得、千貫は西は赤穂辺より東は二見辺に至る間の今の漁業税に相当するものなりと。
「八幡神社の記録中にも社領千石千貫とあり。此千石千貫は豊臣秀吉の為め削滅せられ六十石となりし由、及以下維新に至る間の事、神社の記録に見る所と異らず。之によって見れば、戀ノ濱構居が果して地字城の元の地にありたりとするも八幡神社と対立せるものなるや、又一にして両名のものなりしや、又如何なる関係のありしものなるか、明かならず。」
【構主の如きも】
一、青山主膳なるもの小寺家を横領せんとし時、青山討伐の加勢中に宇佐崎の内藤某なるものあり、と於菊皿屋敷物語中に見ゆ。
二、白濱村旧家として知らるゝ河野氏(伊徳屋)は当時の領政を司りしものか、今尚八幡神社の祭典には政府と印せる灯提を神社に捧ぐる慣例を守りつつあり。
三、八正寺の主僧、社領及び八幡社務を司りしは明なり。
「されば之等の何れが其構主なりしか、之亦知るべからず。故に只後日の参考に資せんと聞し儘を記す。」
(白濱村誌・人物古城跡地学之部 大正5年9月調)
現在の地理から見る「恋の浜城」
現在の白浜の海岸は、中世の昔、「恋の浜」と呼ばれたこともあり、この地にあった城が「恋の浜城」といわれている。現在の山陽電鉄白浜の宮駅北東に宇佐崎と中村が隣接した所に「城ノ元」と呼ばれる小字がありますが、ここが城跡があったところであるといわれています。
起源は、康暦2年(1380年)に伊予豪族河野氏の一族で三木通近が足利幕府三代将軍足利義満によって、播磨の当地付近の地頭職に任ぜられ、讃岐(香川県)の三木郡から当地に入ってこの城を築いたのに始まり、嘉吉3年(1443年)3代目通重が英賀に移されるまで60年間に渡り、在城したと伝えられています。しかし、城といっても、周囲に水濠をめぐらせた豪族屋敷のようなものであると考えられています。現在の字「城ノ元」の地籍図を見ますと、円形の土地がはっきりと残っており、これが中世「恋の浜城」の跡地であることを物語っているようです。
(灘地区の地域資源)

