石田五芳(文雅園五芳)― 郷土が誇る歌人・俳人
人物概要・系譜
- 氏名:石田五芳(姓:石田、名:ト称ス)
- 号:文雅園(または五芳園)
- 出身:飾磨郡白濱村字宇佐崎
- 家業:屋号「かぎや」。塩田を多く有する富豪。
- 役職:姫路藩御用金掛
- 父:石田水穂(改名:景兆、寛政3年正月19日没)
- 没年月日:天保6年(1835年)11月12日(※諸説あり)
小蓑塚(こみのづか)の建立
天保6年(1835年)、五芳は芭蕉翁を敬慕し、世話役の松の樹下に松尾芭蕉の句を刻んだ碑「小蓑塚」を建立した。碑面には以下の句が刻まれている。
「はつしぐれ 猿も小蓑を ほしげなり」
この碑の建立に際しては、門下生の南浜、南々らが協力した。また、五芳の弟子の一人である顔堂長幅(がんどう ちょうふく)は、後に「松原八幡宮祭礼絵巻」の詞書を執筆したことで知られている。
文雅園と称する。幼い頃より和歌俳句の研究に身を委ね、斯界に名を成した。和歌に至っては一層研究を重ね、遠国よりその教えを乞う人々が尋ねてくることが多かった。
晩年には、継村の西の山麓の大山神社のほとりに、笠舎という一小庵を営み、斯道に没頭した。またその傍らにある世継の松の樹下に「はつしぐれ猿も小蓑をほしげなり」という芭蕉の句を碑面に刻んだ小蓑塚を、天保6年(1835年)に建てた。門下生には南浜、南々がおり、弟に「松原八幡宮祭礼絵巻」の詞書を書いた顔堂長幅がいる。
(出典:灘地区の地域資源)
歌人・石田正方は宇佐崎の人で、号を文雅園と称した。和歌俳句の研究を志して斯界に名をなすにいたる。ことに和歌には比類のない腕を発揮した。名声が高まるにつれ、遠国より五芳のもとをたずね、教えを乞い足を止めるものが多かったという。晩年には継の山麓に一小庵を建てて。歌道三昧の暮らしぶりだったと伝えられる。草庵の傍に碑を建て「はつしぐれ猿も小蓑(みの)をほしげなり」という芭蕉の句を碑面に刻んだ。これれを小蓑塚という。
御屋敷の花の手筋を喚つけて 啄木鳥までがおぼろつくりぬ
月寒く透間(すきま)教えるひし木戸に はるをとなりの寝たり起きたり 五芳
(出典:灘の喧嘩祭り絵巻)
文雅園と號す、本郡白濱村字宇佐崎の人也、幼より願す、長ずるに及びて和歌俳句の研究に身を委ね遂に斯界に名を成すに至る、殊に和歌に至りては一層妙を極めたりといふ、然れば遠國より尋ね来りて教を乞ひ長く足を止むるもの多かりきと也、晩年に至り継の山麓に一小庵を営み笠舎といひ全く斯道に没頭せり、又其傍に碑を建て、はつしぐれ猿も小蓑をほしげなりといふ芭蕉の句を碑面に刻み小蓑塚といふ。
◎ 吾昔かりしより此道に執しぬれば芭蕉翁の碑を建立せむの志ありて、社友にもはかりぬれど世路のざましにさへられて月行とし去に、つついに齢かたうきぬる、かくちをいうて近頃しきに思ひおこしたるか、此春より重くわづらひてむなかな、よいこもれりこの頃のひまあれば、南浜楠々の二子にたすけられ、かねて心あてにせし土地を見に行、其處といふは継村の西の山下大年の社地のほとりなり、こゝに来てかたこなた俳諧するに、後に山岳かふさりて北風をしのぎ前は蒼海たゝへて南薫をまねく、人跡しげからずまれならずして心にかなへる場所也。そもそ(も)此松林の中にすぐれて大なるひと木は、往年よりゆゑありて我家の有となれば、そのいれによりて世継の松となづく、此日三人衆議して翁の碑をばこの世継の松の樹下と定め、かたはらなる畑中に一庵を結びていざゝか祖徳を報ぜむとなり。時しも八月十五日なれば、かの野分子が「二見まで庵地たづねる月見かな」といへりしも、折にふれておかしく、心を定めたれば、年来の宿意たちまちに散じ歓喜の思をなし、車嶺の清光をまちて歸路につゑをひく 文雅老人
| 水粥の庵地さだめぬけふの月 | 五芳 |
| うみをみこしの松蔭の秋 | 南浜 |
| 新綿の出さかる馬に鈴つけて | 桐々 |
| けさ惣別無事かつ聞える | 芳 |
| 雨あられとへうない日の繻返し | 浜 |
| 芹つまそうも誰もみぬをり | 桐 |
| 青串に櫻くをいななまこかし | 芳 |
| かるかさすゑし嵐のとつはな | 浜 |
| 蓑鳥のみのにもかくし妻ありて | 桐 |
| 火防くはかり奈良で懸する | 芳 |
| 長過で鈍気に見ゆる腰の物 | 浜 |
| のほりどまりの山にねる月 | 桐 |
| としたゝぬ息子もついに棄堀 | 芳 |
文雅園五芳、姓ヲ石田ト称ス。(五芳園五芳ト云フハ誤ナリト。)白濱村ノ内宇佐崎ノ人ナリ。幼ヨリ学ヲ好ミ、長ズルニ及ビテ和歌、俳諧ノ研究ニ身ヲ委ネ、遂ニ斯界ニ名ヲ成スニ至リシガ、殊ニ和歌ニ至リテハー層妙ヲ極メタリ。
サレバ、遠方ヨリ尋ネ来リテ教ヲ乞ヒ、長ク足ヲ止ムルモノ多カリキ。
晩年ニ至リ、糸引村字継村ノ北ノ山麓ニ一小庵ヲ営ミ、塾ヲ開キテ専ラ弟子ニ和歌、俳諧ノ道ヲ講ゼリ。又、此地ニ松尾芭蕉翁ノタメニ墓碑ヲ建テ、墓碑ニ「しぐるゝや猿も小蓑(はつしぐれ)をほしげなり」ノ句ヲ刻メリ。後、之ヲ小蓑塚ト称ス。
今ハ石田家断絶。廃家トナレリ。(以上口傳ニヨル)
五芳氏ノ生年月、死歿年月等不明。又、和歌、俳句等残レルモノナシ。
(出典:白濱村誌・人物吉城跡地学之部 大正5年9月調)
| 碑前供養 | |
|---|---|
| おもしろう木葉ふれふれ塚の前 | 五芳 |
| 山茶花をりて棚招く日に | 桐々 |
| 新畳一間には未だ誰もなし | 鵜田 |
| とんぼう羽子にかけし水引 | 南浜 |
| 手みじかな返事間よきくれの月 | 楠 |
| 錠の口をきらはやの比 | 芳 |
| 五六人をとり入れし米仲仕 | 浜 |
| 元服かほに残る稚気 | 田 |
| わかれ路の目くそ鼻くそ拭ひかね | 芳 |
| たらたらにくつく神宮寺の鐘 | 楠 |
| 松の葉の間からすけるいせの海 | 田 |
| 何を夢にて供のねねふり | 浜 |
| 蚊のおらの馳走を亦も申なり | 楠 |
| 石菖蒲のつゆの東明 | 芳 |
| あた名する窟の公かかくれ里 | 浜 |
| 山かうなりで作る木佛 | 田 |
| 五百年つへたしかな花の株 | 芳 |
| おしつけ貰もさすか草餅 | 楠 |
| ひばり晦日まで豆から焚延し | 田 |
| 夜のほのぼのに掃除かくゝる | 浜 |
| かたくなな舅の旅を見送りて | 楠 |
| 正平小紋今のしたたり | 芳 |
| こゑの渡る襖のうちか気にかゝり | 浜 |
| 出雲の神にそゝく塩水 | 田 |
| 兒連は霜の松露をさがす岡 | 芳 |
| のまぬやうても丸くあら棒 | 楠 |
| 小割する薪のきれし舟まんにお | 田 |
| 罠にかゝつた鳶をおさへる | 浜 |
| あれさうな野分しらけて残る月 | 楠 |
| 曽我の磯れは身にしむ | 芳 |
| とたくたの小荷駄の唄もらうら枯て | 浜 |
| むかふあらしに帯も結はす | 田 |
| 手も見せず居合刀をぬきはなち | 芳 |
| 鳩とすすのか一時にたつ | 楠 |
| 思願の花のゆきつゝ笠やとり | 田 |
| のんのんにたく線香かけうら | 執筆 |
かくて同月廿四日碑面草菴ともに其道の工みに命けるに、すみやかに功をとげぬれば、九月廿八日墳墓をたつ、抑芭蕉翁の在世門人北枝が奉りし菩提椎坊より傳へて當國増位山の麓なる風羅堂におさまれり、いにし明和第四亥とし吾父蛙水居士墓参のをり、其苔の毛をいさゝかばかりいただきいゑにひのおきけるを今度翁の神主として碑底にこのたてまつりぬ、そのちなみによりかつは伊賀越の遺吟を碑上に記しぬればかたかた小蓑塚とはよはふなり、けたしひつきに扉をいとなむに社裡ののんのんはおのおのの鎌鍬をたづさへ持籠如蓮を荷ひきたりて助成をなす、其響四方に聞えけるや遠き近き風友の評よりも前前の法具をはじめるは庵中の調度および庵前の嵩樹などおもひおもひの奉納寄附おびただし、足全を野翁が本意道の冥加に相かなふものかなれば自今己後一個の道場として永く法燈をかかげむと拙き一語をのこすことかくのごとし。
石田五芳 誌
天保六年乙未十月笠屋とりに筆をとる
十月十二日 導師慈舟上人
(出典:飾磨郡誌)
五芳は飾磨郡宇佐崎(白浜村)に生れ姓を石田と云いまでは唯人も知れど其後離散して五芳が遺称を知ることさえ困難であった。たまたま播磨36歌仙なる書によって審の灘石田権左ヱ門なることを知り得たのである。郷の灘は白浜の古称である。五芳の邸宅は今の最勝寺の西側にあったもので其の構可なり大きなものであった。多くの塩田を有する界隈切っての富豪であった。屋号を「かぎや」と称し姫路藩御用金掛をも仰せ付けられ相当羽振りをきかせていたことが窺われるのである。又五芳の家系は詳かならざれども古くより此の地に住み石田の姓を名乗って居た。尚又一軒の新宅を育てていたのである。五芳歿して後漸く家運傾き今日に至りては其の後裔所々に転住して其の跡を尋ねるさへ困難である。新選俳諧年表によれば五芳は「文政6年6月歿す、石田氏有徳羅堂と称す。蘭史門播磨の人下総銚子に住す。」とあれ共甚だ信じ難く僅かに石田氏播磨の人が附合して居るに過ぎない。然らば他に同名の者あるかと云うに石田五芳なる俳人他に播州にあるを聞かないのである。殊に文政6年6月死すと記されてあるも五芳は明らかに天保6年11月12日に卒し文政6年6月とは12年6月も後のことであって正雅と云うことまで判っているのである。然し彼が何才の年死んだか又彼の墓が何処にあるか見出さないのである。多分墓は造られなかったのではないか。而して五芳は誰に師事して俳諧を学んだかそれを知る材料を得ないが彼の父蛙水(改名景兆、寛政3年正月19日歿す)が俳諧をやっていたので父に依って俳諧を学んだのではあるまいかと想像せられるのである。五芳は最初徳文雅庵或は五芳園と称し京都の蒼虬、須磨の西月、京都の蘭史等と交り青蘿歿して以来播磨に俳諧を宣伝したものである。又彼が高弟として常に彼に附き従い彼が性格を充分理解してこれを援けた者は楠々と南浜であった。此の弟子のことは省略す。五芳は俳諧の外可なり筆腕を育していたと見えて多くの随筆を発見するのである。即ち 鉢敲、読濤櫓七郎、朝顔、惟夫、火うち箱、等
としたたぬ 息子もついに棄堀
さいさい来れど達はぬ笠縫
かすまれて物言もせぬ渡し舟
おもしろふ木の葉ふれふれ塚の前
(出典:灘中学創立25周年記念誌)

