河野家(宇佐崎河野氏のルーツと邸宅)

河野家(西河野)

宇佐崎 河野家 表側(大正)

宇佐崎の河野家の表側(大正時代)

 おそらく幕末を知っているだろうこの建物は、百年前のままに今のこっているので、よき旧時代の民家の文化財と見るべきである。

 写した日が氏神祭だったので、定紋の提灯を入口に二つ並べてあるのも家の古さを物語っている。この紋は英賀城主の三木家のと同じで、讃岐の三木郡出身の河野家の流れを示しているのである。屋根は軒までも本瓦葺で、続く高い塀の内には苔むした古風豊かな庭や茶室、離れ座敷等が並んでいてゆかしい。

(出典:大正の姫路)

河野家 令和3年撮影
令和3年撮影の河野家邸宅
姫路市 都市景観重要建築物 第13号<平成7年3月1日指定 建築年代:18世紀後期>

河野家の座敷

 白浜町に河野姓の家が多いのは、その遠祖は四国伊予の河野通有系の子孫が東へ移ってこの海岸地に来り住んで繁栄したもので、徳川時代には盛んに塩田等を拓いてきたのである。

 宇佐崎の当主河野秀通氏方は旧時代のまゝの家屋に住んでいて、よく旧風が建物、庭園、器物共に出ており、一時代以前を偲ぶには都合よい。座敷も至つて落ち着きがあり、書院風の窓ごしに見る庭の石灯籠もやさしい姿、その向うに豪壮な倉庫があって、時代を遠く想像できる変つた眺めである。

(出典:明治の姫路百景)

河野家座敷 令和3年撮影
令和3年撮影の河野家座敷

伊予豪族河野氏の来住と活躍

 宇佐崎の歴史で見過ごすことができないのは、鎌倉時代の末期永仁年間(1293~99)に伊予豪族の河野通忠が当地を訪れ、そのまま宇佐崎に定住して松原八幡宮の役職を勤めるとともに宇佐崎発展の基盤を築いたと伝えられる史伝である。

 河野通忠は、弘安4年(1281)蒙古軍が博多湾に攻め寄せて来た時、14歳の若武者として剛勇の父通有とともに奮戦したことで知られる武勇の人物であるが、成人後は故あって家督を継がず、やがて伊予を出て諸国を歴訪、ようやく当地に定住したと伝えられる。

(出典:松原八幡神社史)

歴史風土編:伊予水軍河野氏の一族と恋の浜

伊予豪族河野氏
 中世恋の浜の歴史は、伊予水軍で知られる四国伊予の豪族河野氏につながる人々の事績を抜きにして語ることはできません。
 河野氏は伊予国(愛媛県)の古代からの名族で、本姓は、越智氏。同国温泉郡河野荘にいたので河野氏を名乗るようになり、やがて瀬戸内の島々を含む越智郡など北伊予一帯の海域全域を制圧、源平の壇ノ浦合戦には水軍を率いて偉功をたてるなど、さらに勢力を強めました。※1

 鎌倉時代に入ると、河野氏は伊予一国の守護となり、弘安四年(1281)の蒙古軍来襲の際には通有が軍船に乗って敵陣に乗り込み、子の通忠とともに奮戦して全国に勇名をとどろかせました。

一遍上人の松原別宮参詣
 河野氏の一族で、まず最初に恋の浜に姿を現わしたのは時宗の開祖一遍上人です。※2
 武勇をもって知られる河野氏の一族としては極めて異例の人物といってもよい遊行聖一遍上人が当地を訪れた経緯は、上人が長い間の念願だった書写山参詣を終え、満たされた心で播州各地を巡礼、弘安十年(1287)に松原別宮を訪れたもので、一遍上人は当地松原別宮において「身を観ずれば水の泡、消えぬる後は人もなし……」といったいへん有名な別願和讃を作って時衆(時宗の信徒たち)に示すという歴史的にも著名な事績を残して当地を去りました。※3 ※4

一遍上人聖絵 抜粋

一遍上人と播磨
 一遍上人は遊行上人ともいわれ、伊予豪族河野氏の出身で、幼くして母と死別し世の無常を痛感したことなどから、念仏修行の道に入り、やがて妻子や所領を捨て捨聖の道に徹して、地方の民衆に念仏を拡めるため、北は奥州から南は九州に至るまで、日本各地を念仏踊りをしながら「南無阿弥陀仏・決定往生六十万人」と書いた札を十六年もの間賦して歩いた人物として知られています。※5 ※6

 一遍上人の播磨に寄せる思いは、加古郡野口の沙弥教信や書写山円教寺の性空上人への思慕の念を通してただならぬものがあり、播磨での布教は特に熱心だったようです。※7

 この遊行上人一遍は心中ひそかに書写山を時宗の本山と思っていたとも伝えられ、また、自分の生涯を印南野で終えることを願っていたのですが、播磨巡礼の二年後の正応二年(一二八九)摂津国兵庫の光明福寺観音堂において五十一歳で亡くなります。

 死に臨んだ一遍上人は、経典さえもすべて焼き捨て「一代の聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏となりはてぬ」と言い切り、「自分の亡き骸は野に捨て獣に施すべし」と言い残して示寂したということです。

 しかし、一遍上人の事績や教えは、その弟子たちによって『一遍聖絵』や『播州法語集』という絵巻物や書物にまとめられ、後世に伝えられました。

 なお、一遍上人や時衆が宗教学者や歴史家の間で特に注目されるようになったのは戦後のことで、一般には余り知られていませんでした。以上のような事情から、一遍上人と播磨について比較的詳しく説明しました。

一遍上人聖絵 抜粋

石手神社と河野通忠

 宇佐崎に石手神社という、当地方では珍らしい名前の神社があります。石手という名前は、四国八十八霊場でも名刹として知られている伊予国(愛媛県)松山郊外の石手寺にちなんで名付けられたものです。※8 ※9

 『兵庫県飾磨郡誌』(昭和二年刊)によりますと、「石手神社。祭神、孝霊天皇の第二[三]皇子。当社は建武の比、此地の人河野通元の伊予石手神社より分霊を勧請奉祀せしもの也。当時境内に関人の父通忠及び通忠の従僕出淵次郎・桑原平六を祀りし祖霊社ありしが、今は社内に合祀せられたり」となっていて、建武(1334~38)の頃に建立されたと記しています。

 建武の頃に河野通元が神社を建立したということは、建武以前に河野氏が当地に来住していたことを示すものですが、宇佐崎河野氏は一体いつ当地に来住したのでしょうか。

石手神社拝殿

 河野通元が建武年間に創祀したと伝えられる石手神社。祭神は伊予豪族河野氏の始祖にあたる孝霊天皇第三皇子。創建以来、何度か改修の手が加えられた。現在の社殿は、故河野美通氏はじめ多くの地元有志等によって改修された。境内には、その時に建てられた改修記念碑がある。

河野通忠の当地来住

近世江戸時代の宝永七年(一七一〇)に旧宇佐崎村の名家河野氏の河野弥太夫通賢が註を付けたと伝えられる同家「旧記」が『兵庫県飾磨郡誌』に収録されています。その「旧記」を見ますと、「河野通忠伊予国を退き此地に来る。爰に松原八幡宮毎年八月十五日の祭祀には日本六十余州より六十六人の使者来りて執行するの慣例たり。然るに此使者遅速ありて諸人難儀す。遂に通忠に千石千貫の内百石を与へて使者代たらんことを乞ふ。通忠、即ち諾し、政所と称し、祭礼を改めて九月十五日とす。此時、通忠恵美酒神社を再興して宮守を付置く、云々」とあり、河野通忠が当地に来住したこと、および来住後の通忠の事績を書き誌していますが、その時期は示していません。

 この点について今回関係史料を調査しましたところ、通忠は永仁年間(一二九三~九九)に通貞・通元の二子を伴って当地を訪れ、松原八幡神宮の地に脚を休め、宮領惣司という役を勤めたことがわかりました。

石手神社本殿

 拝殿の奥にある石手神社本殿。石手神社は宇佐崎河野氏の祖霊社であると同時に、地元住民の信仰をも集め、俗に権現さんと呼ばれて親しまれてきた。

松原八幡と宇佐崎河野氏とのかかわり

 河野通忠が勤めた宮領惣司という役が、荘園体制下の松原八幡宮で、歴史学でいう公文職・下司職などの荘官職のうち具体的にどの職に該当したのか不明ですが、ともかく宮領惣司という役を勤め、それによって社領のうちの本米百石と上田六反の収穫を自己の取分としたということです。※10

 次いで、通忠の跡を継いだ二代目通元は、宇佐崎村の中奥を開いたほか、父通忠時代の所領を引きつづぎ支配したと伝えています。

 その後の松原八幡宮と河野氏の関係を見ていきますと、三代目通兼、四代目通隆、五代目通安、六代目通之と所領は変りませんでしたが、通之の代に松原八幡宮において政所と号したと伝えています。この点、政所と称したのは通忠時代とする『兵庫県飾磨郡誌』所収の旧記とは食違いがあります。

 そして、七代目通継の代に至って河野氏は家督を二分し、嫡子通継が本家を継いで「東の政所」と号する一方、通継の弟三郎太夫が所領五十石と上田三反を分与されて家を興し「西の政所」と号しています。

 この後、河野家は八代目通列、九代目通勝、十代目通定、十一代通正、そして沖新浜塩田開発の十二代通賢とつづくわけですが、八代目通列以降については松原八幡宮とのかかわりを示す記録は今のところ見当らず、この頃から松原八幡宮と河野家との関係は薄れていったのではないかと思われます。

蛭子神社(恵美酒神社)の再興

 河野家「旧記」にありますように、通忠は当地に住み着いた後、数々の事績を残しましたが、その一つに恵美酒神社の再興があります。

 恵美酒神社というのは、現在の八木港西岸にある蓬萊山(通称棲神の小島)に鎮座している神社で、蛭子の神を祭神とし、正式な神社名を蛭子神社といいます。

 蛭子神社の創始は古く天平宝寺七年(七六三)といわれていますが、通忠の来住した当時はおそらく質素な祠のような状態だったと思われます。通忠はこの祠を立派な神社とし、さらに宮守を置いて神社ならびに島の管理に当らせたわけで すが、蛭子神社の創祀と沿革は恋の浜地域の歴史にとって大きなかかわりをもっていますので、時代は逆行しますが、以下蛭子神社の歴史について簡単に説明しておくことにします。

蛭子神社の創祀

 蛭子神社の創祀と沿革を記した文献は、宝永七年(一七一〇)に河野通賢が註した同家「旧記」のほか、寛保三年(一七四三)に通賢の子通生が同じく註を加えた「旧記」、宝暦十年(一七六〇)に天川友親が撰述した『播陽万宝智恵袋』などがありますが、いずれも通賢校註本によっていますので、ここでの説明も通賢校註本の記述内容から紹介していくことにします。※11

「播磨国飾磨郡松原庄宇佐崎浦蓬萊山蛭子大明神の由来を尋ぬるに、人皇四十七代廃帝天皇の天平宝字七年六月十五日、一人の童子龍馬に乗り海中よりこの島に出現あり。漁人童子に向って問答するに、吾は八幡宮の鎮守蛭子明神也、此山に鎮座して衆生を守護すべしとのたまふ。乃ち里人に告げ、此地に宮を営みて蛭子神を祭る。後、河野通忠伊予国を退き此地に来る…(中略・「石手神社と河野通忠」の項参照)…祭礼を改めて九月十五日とす。此時、通忠恵美酒神社を再興して宮守を付置く。寛文中、通忠十二代の末孫同姓通賢、祖先の信仰せし明神を絶破しては神慮も計り難しと、本社拝殿等氏子奉加にて建立す。後、延宝中、鳥居庵室等、是亦通賢自力にて建立し、四箇所の井戸を掘置く。当所より明神までは海上十町余を隔てしに、寛永二年姫路城主本多美濃守十八反浜を開発し、寛文八年通賢十八反浜の沖手に新浜を築き出しし故、今は陸地つづきと為る。此島は亀島にて、頭は戌亥に、尾は辰巳にあり、故に蓬萊島といふ。又、麓の川は八家川に非ず、此の島に神の棲み給ふにより棲神川なり、云々。」

 右の「旧記」の中で注目されるのは、蛭子神社が松原八幡宮の鎮守、そして衆生の守護神という考えで記述されていることです。この点に注目して考察しますと、蛭子神社の創祀が天平宝字七年(七六三)となっているのは意識して松原八幡宮と同年の創祀にしたものであること、そして地元住民の信仰を集めようとする意欲があったことなどを窺い知ることができます。また、創祀月日の六月十五日という日は、この日が蛭子神社の最大行事である名越の祓(夏越の祓)の祭礼日であることを考えますと、これも通忠の設定した創祀月日のように思われます。なお、蛭子神社の実際の創祀は、おそらく民俗的なエビス信仰にもとづく自然発生的なもので、いつの頃からか祀られていた小さな祠のようなものがあったのを、通忠が立派な神社として再興したと考えるのが最も自然なように思われます。

蛭子神社(恵美酒神社)

蛭子神社 社殿

蛭子神社(恵美酒神社)

蛭子神社は恵美酒神社とも呼ばれ、天平宝字七年の創祀と伝えられる。もと山麓にあったが、寛保三年山上に奉還された。戦後、荒廃したままであったが、最近、旧宇佐崎地区の浜田長蔵総代はじめ全住民の熱意により全面改修が行われ、昭和五十九年七月、写真に見るような立派な社殿が完成、落慶記念行事が挙行された。

蛭子神社の参道

蛭子神社から望む播磨灘

蛭子神社からの眺望
蛭子神社から望む播磨灘
蛭子神社は蓬莱山の頂上に立っている。沖新浜塩田が築造されるまでは海中の小島で、ヤカ(榎神)の小島と呼ばれた。亀の形をしていて、頭は戌亥(北々西)、尾は辰巳(南々東)にあるといわれる。

蛭子大明神(蛭子神社)由緒記

蛭子大明神(蛭子神社)由緒記
蛭子大明神(蛭子神社)由緒記
蛭子神社(恵美酒神社)の御神体である蛭子の神の乗った馬像の中に納められていた由緒記。下はAI(Gemini3.0)による画像解析
蛭子大明神由緒記AI解析

中世後期の宇佐崎河野氏

 以上述べましたように、十三世紀末の頃、当地に来住し、通忠の数々の業績によって地盤を築いた河野氏は、たちまち頭角をあらわし、室町時代に入りますと、松原荘内で最有力の土豪として松原別宮の社務や荘園業務にも関係した模様で、その実力は近世江戸時代に入っても衰えず、やがて広大な塩田を開発して恋の浜地域の発展に寄与することになります。

 越智姓三木氏の当地入部河野通忠の次に当地にやってきた著名人物は、これもやはり伊予豪族河野氏の一族で、一遍上人や河野通忠とも系譜の上でつながりのある三木通近です。

 一説によりますと、通近は、室町幕府の三代将軍足利義満から西播磨海岸地域の地頭職を命ぜられ、康曆二年(一三八〇)、讃岐(香川県)の三木郡から当地に入り、恋の浜城に入城したのに始まり、嘉吉三年(一四四三)三代目の通重が英賀に移されるまで三代六十年にわたり、この城に在城したと伝えられています。恋の浜城恋の浜城は、右に述べましたように、三木通近の入部以前からあった城を通近が修復したと伝えられる城で、その所在地は、「城ノ元」という地名が今も残っていて、これが恋の浜城の跡地と考えられています。

 現在、「城ノ元」という地名は、旧宇佐崎集落の北西部と旧中村集落の北東部とにまたがって、東西に二分した形で隣接していますが、これは近世初期の村切りによって分割されたもので、往時は一連の土地で、ここに恋の浜城が築かれていたというわけです。

 もちろん、城といっても、当時の平野部の城は、周囲に水濠をめぐらせた土豪屋敷のようなもので、恋の浜城もいわゆる構居の大がかりなものだったと思われます。

 ちなみに、明治初期の地積図(字限図)を見ますと、字「城ノ元」には周囲を水田にかこまれた円形の畑地がはっきりと残っていて、この畑地が中世恋の浜城の屋敷跡と推察されます。

 (恋の浜城主三木氏 以下省略)

姫路市南部土地区画整理事業完工記念誌   「恋の浜藻塩の郷」より

字「城ノ元」

字「城ノ元」
字「城ノ元」
明治時代の宇佐崎村字限図に見る字城ノ元。図中の黒い線は農業用水路で、ほとんど水田であるが、中央の楕円形の部分だけは畑地で、これが恋の浜城の屋敷跡ではないかと思われる。

注釈詳細

※1 河野氏のいわれ
伊予豪族越智氏が河野氏を名乗るようになったいわれについては、伝説時代のことでもあり、確かな史料はない。本文では、従前の通説に従い温泉郡河野荘にいたことによるとしたが、最近の愛媛県関係の歴史書などを見ると、風早郡河野郷とするものがある。

※2 時宗
我が浄土教の一派。浄土三部経、殊に阿弥陀経を正依、法華経・華厳経を傍依とする。阿弥陀経などの「臨命終時」の経文により、平生を臨終と心得て念仏するからいう。建治二年(一二七六)一遍上人開宗、本山は藤沢市の清浄光寺。遊行宗。
(『広辞苑』)

※3 一遍
鎌倉中期の僧。時宗の開祖。諱は智真。伊予の人。法然の門弟証空の弟子聖達を師とし、後、念仏弘通の大願を発し、念仏踊を民衆に勧めた。諸国を遊行し済度利生に熱心であったから、世に遊行上人と称した。正応二年(一二八九)寂。明治十九年円照大師。昭和十五年証誠大師と勅諡。
(『広辞苑』)

※4 和讃
国語(日本語)で仏・菩薩・先徳などの徳行を讃嘆した今様体の歌。一般に七五調の四句を一連とする。平安時代から江戸時代にかけて行われ、親鸞の「三帖和讃」などが有名。漢文体のものを漢讃、梵語のままに仏徳を讃えて唱える文を梵讃という。
(『広辞苑』)

※5 一遍上人の別願和讃
一遍上人が松原別宮で時衆に示した別願は次のとおりである。なお、別願とは総願に対するもので、仏独自の誓願をいい、ここでは阿弥陀仏の第十八念仏往生願を指している。

※6 別願和讃

身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし
人天善所の賞をば をしめどもみな たもたれず
眼のまへのかたちは 盲て見ゆる色もなし
香をかぎ味なむる事 只しばらくの ほどぞかし
過去遠々のむかしより 今日今時に いたるまで
聖道・浄土の法門を 悟さとる人はみな
善悪不二の道理には そむきはてたる 心にて
煩悩すなはち菩提ぞと 聞て罪をば つくれども
自性清浄法身は 如々常住の仏なり
万行円備の報身は 理智冥合の仏なり
断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり
名号顕因の報身は 凡夫出離の仏なり
別願超世の名号は 他力不思議の力にて
始の一念よりほかに 最後の十念 なけれども
おもひ尽なむ其後に はじめをはりは なけれど
はやく万事をなげ捨て 一心に弥陀を 憑つ
此時極楽世界より 弥陀・観音・大勢至
一時に御手を授つ 来迎引接たれ給ふ
須臾の間を経る程に 安養浄土に往生す
すなはち菩薩に従ひて 漸く仏所に 致らしむ
玉樹楼にのぼりては 遙に他界をみる
慈悲誓願かぎりなく 長時に慈恩を 報すべし
命をおもへば月の影 出入息にぞ とどまらぬ
地獄鬼畜のくるしみは いとへども又 受やすし
耳のほとりの言の葉は 聾てきく声もなき
息のあやつり絶ぬれば この身に残る 功能なし
おもひと思ふ事はみな 叶はねばこそ かなしけれ
生死の妄念つきずして 輪回の業とぞ なりにける
邪正一如とおもひなす 冥の知見ぞ はづかしき
生死すなはち涅槃とは いへども命を をしむかな
迷も悟もなきゆゑに しるもしらぬも 益ぞなき
境智ふたつもなき故に 心念口称に 益ぞなき
十悪五逆の罪人にも 無縁出離の益ぞなき
十方衆生の願なれば 独ももるゝ 過ぞなき
口にまかせてとなふれば 声に生死の 罪きえぬ
念をかさねて始とし 念のつくるを終とす
仏も衆生もひとつにて 南無阿弥陀仏とぞ 申べき
南無阿弥陀仏と息たゆる 是ぞおもひの 限なる
無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し
即金蓮台にのり 仏の後にしたがひて
行者蓮台よりおりて 五体を地に投げ 頂礼し
大宝宮殿に詣でては 仏の師法徴聞し
安養界に到りては 穢国に還て済度せん

(岩波文庫『一遍上人語録』)

※7 教信
平安中期の沙弥。賀古の駅家(加古川市野口町付近)の北辺に妻子とともに住み、一生念仏を唱え続けたので〈阿弥陀丸〉と呼ばれた。在家沙弥による専修念仏の先駆者として注目され、親鸞や一遍も彼を先達と仰いだ。とくに一遍は弘安九年(一二八六)に当地に来て一泊し、正応二年(一二八九)七月発病して淡路から明石に渡ったときには、教信の故地印南野のほとりで臨終を迎えたいと願ったほどに教信を敬慕した。一遍の弟子湛阿が元亨三年(一三二三)に野口の大念仏をはじめ、教信の廟墓を建立したのもそのためである。
(『兵庫県大百科辞典』)

※8 石手神社の「奥の権現」と「口の権現」
宇佐崎地区の住民は、石手神社を権現さんと呼んで親しんできましたが、厳密にいうと、石手神社には「奥の権現」と「口の権現」とがあり、さらに「口の権現」は三社権現とも呼ばれる三つの権現の総称なので、石手神社は結局四社権現だったということになる。以上のうち、「奥の権現」は神社境内の奥の方に鎮座していたので、このように呼ばれたものと思われ、これが石手神社の本殿である。祭神は孝霊天皇の第三皇子(伊予皇子)で伊予石手寺権現から分霊を勧請して建立、御神体は玉の石で、建立者は通忠とも伝えられる。
これに対して、「口の権現」は通忠の死後、子の通元が父通忠とその二人の家来(出淵・桑原)の霊を個別に祀った祖霊社で、小宮堂のような社が三社、神社境内の入口近くに建っていたので「口の権現」あるいは「三社権現」(「三所権現」ともいう)と呼ばれるようになったものと思われる。

※9 河野通忠来住の経緯
河野通忠の成人後の足跡について、伊予史の基本図書『予章記』などをみると柚木谷に館したと伝えるだけであるが、当地の河野氏関係記録は、およそ次のように誌している。
「通忠。通有ノ長男、童名千宝丸、母江戸太郎娘。弘安四年十四歳ニテ父通有ト蒙古合戦ノ時、大勢ノ敵ヲ討取リ弓矢ノ高名毎度。其レヨリ予州柚木谷ニ館造リシテ住ム。末子六人ハ母一腹、通久姫ナリ。七人ノ兄弟、次第座二居テ父通有ノ遺状ヲ披ク。末子通治二国ヲ譲ル筆跡、是レ以テ通久姫ノ計ナリト心ニ刀ヲ含メドモ是非無ク立去リ、柚木谷二居ル通貞通元二人ノ子ト予州ヲ出テ中国ニ渡ル。柚木谷ノ館一族ハ圓海和尚二譲リ真言宗福正寺ト名付ケナリ。通忠、永仁年中流レ身トナリテ播磨ノ国防万郡松原八幡宮ノ地ニ脚ヲ休ム。則チ宮領惣司勤ムルナリ。之ニヨリ社領ノ内本米百石ト上田六反ノ収穫ヲ自己ノ取分トシタ。通忠は右のようにして通貞・通元の二子と二人の家来を伴って当地に来住したが、長男通貞は建武二年越後国上田庄小栗山郷に所領を与えられて当地を去り、通元が宇佐崎河野氏の当主となった。」

※10 通賢・通生以後の河野氏
十二代目通賢・十三代目通生以後の宇佐崎河野氏は、十四代目通孝、十五代目通延、十六代目通登、十七代目通貫、十八代目安通と続いて明治維新に至るが、この間、塩浜経営のほか廻船業なども営んだ模様で通称「伊予屋」を名乗るようになる。したがって、文政初期の十州休浜同盟の設立談合集会に当地塩浜代表として出席している伊予屋又三郎は河野家の人ということになる。
河野本家(通称伊予屋)は、その後、十九代目通積を経て二十代目通之で大正期に絶えたといわれているが、河野氏一族としては、本家十四代目通孝から分かれた通称「西河野家」が栄えて現在に至っている。また、一族中の著名人物としては、近世後期に俳人の河野南々(楠々とも書く、通称通雄)が出て活躍したが、南々については第四章本文で述べることにする。

※11 『播姫太平記』にみる宇佐崎河野氏
宇佐崎河野氏について、寛延二年(一七四九)の姫路藩百姓一揆の顛末を記した『播姫太平記』は次のように紹介している。
「……宇佐崎と申は隠れなき所にて其昔も四国伊予国主河野四郎通信四代の孫全対馬守通有の嫡子柚の木善八郎故有りて此所へ移られ則ち当地に居城を構へおはしける其旧跡今に残り一林御除地となり一社を建てて是を今に権現と号して霜月卯の日に河野家末流の人々毎年祭礼興行をなすとかや……」

※12 河野氏:『日本歴史大辞典』の解説
河野氏。『日本歴史大辞典』(第四巻)は伊予豪族河野氏(河野宗家)について次のように解説している。
「河野氏。伊予(愛媛県)の古代からの名族、中世には守護であった。平安時代までは伝説におおわれているが、かなり旧く土着の豪族から出たことがわかる。伝説では神饒速日命の後裔越智氏から出て、その祖は文武天皇のとき、伊予の大領となった越智玉興の弟玉澄であるという。玉澄は温泉郡河野におり、平安時代には、河野庄といったので河野氏を名のった。玉澄の子益男は周敷郡司となり、六世の孫好方は、藤原純友の叛乱のころ、越智郡の押領使となった。その後、族類は温泉・周桑・越智三郡にひろがり、好方十二世の孫親経の子親清は子がなかったので、三島明神に祈って通清を生んだ。これで河野氏が大三島の大山祇神社を氏神としてきたことがわかる。
鎌倉時代になると伝説時代を終り、さきの三郡と瀬戸内海の島嶼の海賊を惣領して勢力を張る。一一八〇(治承四)年、以仁王の挙兵があると、土佐の源希義らと呼応して蜂起し、平氏とたたかった。寿永年間(一一八二~八五)高縄城に拠ったが額西寂のために殺された。子の通信も勇名をはせ、西寂を斬って義経に従い、一一八四(寿永三)年平氏の壇浦滅亡には海軍を率いて偉功をたてた。伊予守となった義経が任国に赴かぬうちに頼朝に追及されたので、その死後は頼朝に従って御家人となった。また北条時政の女を娶って一二〇五(元久二)年伊予一国の守護となり、守護を称した三二家を廃してこれを従えた。承久の乱では一族が二分し、子の通久は母の関係で北条氏にしたがって宇治口の軍にあり、孫通秀は後鳥羽上皇の西面の武士として京都方についた。
しかし、所領は失わなかったようである。
八一(弘安四)年の蒙古の役には通久の孫通有が舟軍を率いて出陣、敵将を捕虜にして勇名をのこした。その頃には伊予全域に一族親戚の地頭を配置し、また恩賞地は肥前・肥後に及んだ。南北朝の内乱には通有の子通盛はいちはやく、一三三三(元弘三・正慶二)年に畿内の叛乱軍に呼応した。三五(建武二)年中興政府が樹立すると伊予の守護を安堵された。けれども、足利尊氏が関東に兵を起すと子の通朝はこれに従い幕府創立後はその有力な家人となった。ところが、古代いらいの名族であったので保守的な部分は政府側にはしり、土居・得能両氏は新田義貞らと行動をともにした。一族入り乱れて戦ったが、勝利は通朝の系統に帰した。一三五四(正平九・文和三)年には周防の守護をかね、細川頼之が中国筋で勢力をしめると、六三(貞治二)年瀬田山城で敗死し、その子通堯もまた吉岡城で敗死し、ついに周防を失った。室町時代には、かつての一族はいずれも一円領主化して独立する傾向にあり、その連合のうえに守護大名として権威を保った。三代将軍義満は通堯の子通能に父祖の功を賞して本領を安堵した。その子通久の代には大友氏と戦って陣没、しだいに昔日の面影を失っている。室町時代には土佐の長曾我部氏とたえず戦闘をくりかえし、その侵攻をうけるたびに力を失った。信長・秀吉のころは、もっぱら島嶼部の海賊衆を率いて、その方面で活躍していた。しかし一五八五(天正一三)年秀吉の四国征伐にさいし、福島正則が今治に入部すると、通久三代の孫通直は国を出て安芸にゆき竹原で死んだ。こうして河野氏は滅亡した。」