蛭子神社(恵美酒神社)
神社概要
- 祭神:蛭子大神(事代主命)
- 所在地:木場港の西岸「蓬莱山(通称:榎神の小島)」
- 創始:天平宝字7年(763年)と伝わる
- 再建:中世南北朝時代(河野通忠)、寛文8年(1668年)等
- 例祭:1月「睦月祭(新年祭)」、6月「水無月祭」
神社の由緒と「神鶴・船材」の伝説
木場港の西岸にある蓬莱山(通称榎神の小島)に鎮座する神社で恵比酒神社ともいう。創始は天平宝字7年(763年)といわれている。宇佐崎の河野家「旧記」によれば、中世南北朝時代の建武の頃、河野通忠が再建して宮守をおいたとされている。
参道入り口の脇の石碑には、寛文8年(1668年)に宇佐崎村の河野宗兵衛清房、河野弥太夫通賢、置塩治郎右衛門通憲らがかつて神社の北西にあった塩田(沖浜新田)の開発に成功するまでの経過が詳しく説明されている。戦後、社殿が荒廃したが宇佐崎の有志の永年の努力が実を結び、昭和59年(1984年)に立派な社殿が完成した。平成元年(1989年)には住民の寄付により参道の灯籠が数多く奉納された。
白濱村誌・社寺之部:霊験と再興の記録
在中佐崎村。村ヨリ十三町巳方、長五十c七間廣二十四間。抑棲神川當社ハ、中葉天平巳年六月十五日、此島先ノ尾口ニ一人ノ神童駿馬ニ乗シテ海中ヨリ上リ給フ。是則蛭子ノ神也ト云傳ヘタリ。山上ニーツノ社ヲ建テ鎮座マシマス。其後、廃ニ宮ヲ造リテ遷シ奉ル。然ルニ、元禄五癸申年二月十日ノ夜、蛭子ノ宮ノ神体イカ成故ニヤ、御行方不知、失玉ヒヌ。島主某、神体ナキ事ヲ憂ヒ、新ニ(以下、平仮名使用)神体を造り奉りて拝手申事懃なり。夫より三十八年の星霜を経て享保十三丙申年二月十日の夜、宮守に了源といふ者あり、夢中に山上より蛭子の召玉ふと不思議の夢を見る。夙に山上を廻り神前を見奉れば、相殿の一つの稲封じ有りけり。近所に人や有と尋ねれ人なし。島主河野氏へ此事を通して併ひ、彼箱を開き見るに、馬に乗り給へる蛭子の神体也。往昔失なひし神形成事を知て驚き奉る。今三十八年の春秋を経て神殿に帰り玉ふ事、神妙霊験凡智を以て測るべからず。夫、蛭子の神を恵美酒と敬ふ事久し(事)。
<云傳へ侍る事にして、旧時大成経に蛭子を恵美酒と云の説有。蒼生各家業に油断なく能約に務る者には幸をあたへたまはんとの事見えたり。近世、神道大ひに隆にして、此辺を講ずる者多く、大成経も厩戸の王子の真書にあらざる事を吟味し、事代主命を以て恵美酒とす。此神は大徳無雙の御神にして、天に事代、国に事代として、神武帝八神殿の内に祭り給ふ。今又、往来の商船此神を祀れば風波の難を凌ぎ、幸を得て商の利を得、農民祀れば耕作の徳を得る事、掌を指が如くならん。…(後略)
(出典:白濱村誌 大正5年7月調 / 飾磨郡誌)
無格社としての記録(明治25年調査)
一、無格社・恵美酒神社
- 祭神:事代主命
- 所在地:白濱村旧宇佐崎村丙ノ六百三十番地字戎新濱
- 社殿間数:本殿 縦四尺五寸 横四尺五寸 / 幣殿 縦一間一尺五寸 横一間 / 拝殿 縦三間 横二間
- 境内坪数:八十五坪(官有地)
- 境内神社:塩竈神社(祭神:味耜高彦根命)
一、無格社・厳島神社
- 祭神:市杵嶋姫命
- 所在地:白濱村旧宇佐崎村丙ノ六百四番地 字戎新濱
- 由緒:創立年月不詳
- 社殿間数:縦四尺二寸 横三尺六寸
- 境内坪数:八坪(官有地)
- 信徒数:百七十九人(大正5年調査時)
蛭子神社 御神体(馬上の蛭子像)
蛭子神社 略年表
| 西暦 | 天皇 | 将軍 | 年代 | 姫路城主 | 記事 |
|---|---|---|---|---|---|
| 763 | 淳仁 | 天平宝字7年 | 築城以前 | 蛭子神、山上に鎮座 | |
| 1661 | 後西 | 家綱 | 寛文元年 | 榊原忠次 | 沖新浜塩田三宅又兵衛に命じ失敗す。 |
| 1665 | 霊元 | 家綱 | 寛文5年 | 榊原政房 | 再度領内大庄屋27人に命ずるも辞退す |
| 1668 | 霊元 | 家綱 | 寛文8年 | 松平直矩 | 宇佐崎の先客3人自力で開発を成功させる |
| 1743 | 桜町 | 吉宗 | 寛保3年 | 松平明矩 | 神社、山頂へ新築復興 |
| 1989 | 明仁 | 平成元年 | 神社再建 |
蛭子神社周辺 古地図
蛭子神社(恵美酒さん)のあらまし
宇佐崎戎小島鎮座
宇佐崎にも戎小島に古い昔からえびすさんのお宮があった。その名を蛭子神社(通称八家の小島の恵比須神社のこと)といった。もう一つ古い呼び方で、榎神川小島蛭子宮といふ名前もある。
色々の呼び方があるのは小島が八家の前の海中にポツンと浮かんで見える孤島であった時代があったり、宇佐崎の前の塩田を南南へ拡げて沖新浜として造成した時代もある。この新浜造成の結果小島は宇佐崎の地先となり、宇佐崎戎小島と称して、誰もがこれを認めて異議など唱える者はなかった。
この島の山頂に、こじんまりした殿堂があったことを、宇佐崎の人で60歳位の年頃の人なら誰もが知って居られると思う。その規模は小さいがよく整った品位高い宮建築であった。何分番人も附けず修繕も施さず荒れ放題にしてあった。そこへ持ってきて、終戦直後に関西を襲ったジェーン台風を始めとし第二室戸台風なども、この小島のえびすさまの社殿破壊に力を添えた。思潮の上では、昨日までの忠君愛国は、俄かに自由我儘主義にとって変られ、何びとも僻地の祠に思いを馳せる余裕もなく、いつの間にやら礎石・土台石・燈籠・狛犬など石造品を小島の山頂に残すのみになっていた。
沖新浜開発と「石刻の碑」の記録
この社の「社史」とも称すべき貴重な、石刻の碑が見つかった。碑銘は「沖新浜開発由来碑」とあり、正面向って左側の面には、左のような語から文章を起こしている。
地頭職は榊原忠次氏、江戸の土木業者三宅又兵衛に沖新浜開発の仕事を請負わせたですでに工事に着手していた。着工して日も尚浅いのに数回、築き上げた堤を破壊せられ、これでは工事の完成おぼつかなしとして、工事の解約を申し入れ、これを許された。榊原氏は直ちにこれに代る手を打った。
二番の手というのは、領内27人の大庄屋を集めて、これだけの大庄屋全体一丸となって沖新浜26軒分の開発に当たってくれと地頭の方から頼みを入れた。大庄屋連中はこの巨大な大規模な工事は我々素人の成就させられるものではない。只々政府の事業としてやって貰いたい。と逃げてしまった。(寛文5年 地頭・榊原政房)
この様子を見守っていた宇佐崎の三人の長老は、時の地頭榊原直矩に対して「この工事を工費民間持ちの工事としてお引請け致したい」と、その希望を当局に申し出た。
地頭職に於てはこの上ない喜びようであった。三人の長老は同志の協力を得て、宇佐崎全戸の人心を掌握しながら事に当り遂に開発工事を成就させた。この時が寛文八年のことであった。三人の長老の名前は明跡に刻まれている。由来碑の正面に向って左側の面の記事はこれだけであって、右側の面にはどのような碑文が刻まれているか、これを左側の場合の如、口述体で書くと時間を要するので、箇条書きにすることを許してもらいたい。
- 宇佐崎の工事計画仲々緻密に検討が出来ている例えば、汀とか「やな」とか水路に至るまで充分に土地面積を見込んであること。
- 台風時に築堤が欠壊させない手段として、八家川右岸堤防と、小島の岩山の岩とを大きな石材を多量に土地面積を見込んであること。用いて一つの岩の境(ワンピース)として硬める事。
- 宇佐崎の真剣さと誠意に感じた地頭は、人夫を応援に出してやろうか、物を運ぶ上荷舟を貸してやろうか、地頭からの優しい言葉に対してもこれを固辞しつづけた。
- 御赦免の浜を一軒、褒美として地頭より頂く。
- 小島恵美酒神社々殿を小島山頂に移転し申す。
一乃至五の項目を碑正面向って右側に刻んである。
| 将軍 | 年号 | 姫路城主 | 記事 |
|---|---|---|---|
| 第四代 徳川 家綱 |
寛文元年 | 榊原忠次 | 江戸の人・三宅又兵衛に塩田開発を命じ失敗に終わる |
| 寛文五年 | 榊原政房 | 領内大庄屋二十七人に再開発を命ずるも辞退す | |
| 寛文八年 | 松平直矩 | 宇佐崎の同志自力で開発を願出て竣工さす |
これには理由がある。八家川(木場の港のこと)は、この沖新浜開発の工事が始まる前は、海つづきであって、現在のように八家川の右岸に築堤はなく、海水に囲まれていた。
沖新浜に塩田を築くとなると、八家川の川口の西の堤は堤防の丈夫なのを築いて開発した塩田に海水の侵入を防がねばならない。ところが木場の港の地形の関係で台風がくると、きまったように木場波止場を通って港のふところに押し込まれた水の水面が上昇し、その水の圧力(横へ広がる横圧)は新築した堤防に加わって、何回もくり返して、新しい塩田を冠水させている。
工事負担者の"えびすさん信仰"はいよいよ強固になり、神の土地である小島という岩山に、木場港西側の堤防を連結し堤防の幅をひろく・高さを高くするなどしてひたすら神の加護を信じ、ひるまず失望せず、工事に尚熱意を示した工事負担者の態度は立派であった。
この工事に数ヶ年も歳月を要しているのは、大門脇の堤防から塩田に水が侵入することは絶対に無いということを、長年月実地試験で確かめた後、はじめて竣工ということにして居るようにも思われる。
碑文の文字をそのまま引用すると「此の山を楯としてはじめて新浜を築くこと得たるなり」とあり、考え方としては現代人と変ったところはなく、論理によくかなっている。工事中に台風に遭ってもひるまず、ここに二十六軒分の塩田が出来上がったことは、ひとえにえびす様のお陰でもある。と碑文にも刻まれている。
今一つ、触れておかねばならぬことがある。
沖新浜造成の計画は、元々地頭である松平大和守から出たもので、次のような条件で契約ができていた。
- 1)工事費は工事担当者が全額負担する。
- 2)完成した塩田の所有権は地頭に在り、地頭よりこれを借用する者は、之に応ずる年貢を地頭に納める。
或る程度工事が進んでから、松平公の方から、人夫を少々出してやろうか? 船を無償で貸してやろうかと申し出した。工事に難儀して居るのを見て、最初の「約束」が無理であったことに気付いたのであろう。それにもかかわらず、この三人の工事負担者はお互いに激励しつつ、宇佐崎の寺で工事に関係するすべての人々との和を計りつつ完成を目指し、地頭に対しては"そんなご心配無用平御無用"と、あくまで応援を辞退しつづけ、ついに目的を貫通した。
これには地頭はまた感激し二十六軒分出来た新浜の内一軒分を三人の工事負担者に与え、"租税免除にしてやる。子々孫々まで伝えよ"という確認書を呉れた。ということです。これは碑文にも載っている。これが俗にいう御赦免の浜といってその名が現在でも残っている。
三人の幹部は、それは有難いことであるが、苦労したのは我々三人だけではない、宇佐崎の住人である。と、実に美しいうれしい談がつづく。
そこで藩主より頂いた、御赦免塩田の収入で宇佐崎村の費用を賄い、明治初期まで御陰様で宇佐崎村は裕福な村であった事を先覚より口伝されておりました。又松原八幡神社の祭典の記事の中にもその一部が伺われます。これも神様(恵美酒神社)のご加護だと思います。
殿堂を山頂に移したのは、旧社殿を解体して移動したものか、それとも全く新しいものを建てたのか、それに係る文献は何も見付からぬが、当時の世間の景気・四国の情況から考えて、社殿は立派なものを新築したのではないかと思う。
宇佐崎の住民は上から下まで全員が新浜造成に勤労を捧げ、自らの汗と脂で成し得た大土木工事が終わった。八家の小島といわれた離れ島が宇佐崎の地つづきの風致地区となった。
この地区は寛文とか寛保とかの時代でなく、現代の人にこそ必要な地区ではあるまいか。
以上文献による「塩とえびすさん」時代の小島えびすを書いたものであります。
これからは、神や仏、宮や寺、などにかかわる古い、日本の古物を書いてみましたので、その書籍名と小島えびすがどのように書いてあるかを紹介することにします。
以上
沖新浜開発由来碑(石刻の碑)現物写真
蛭子神社(恵美酒さん)の由来と歴史的考証
●小島の蛭子神社は、昭和二十年の第二次大戦の終戦時には、本堂・拝殿・狛犬・常夜燈等・神社としての形態を、とどめておりましたが、その後、生活の物心両面にわたる、異常な変革は、自己の生活に一心不乱で僻地の小さな神社まで、想いいたらず、終戦直後のジェーン台風は・・・・・・・・・今は、木質は朽ち果て、ただ、礎石に、往時の名残りを留める状態であります。
私共、宇佐崎町民にとっては、祖先の遺財でもあり、遺訓でもあろうかと思います。宇佐崎町民それぞれの人には懐かしい想い出の土地でありましょう。
そこで、この蛭子神社について、その由来を求めて「日本書紀」「播磨鑑」「神道辞典」をひもとき、要点を抜粋し、これを口語文に直してみました。各々方、ご自身の意見も交えて、古い書籍を解読してみて下さい。
「えびす」神の諸説と考察
●先ず参考までに、俗に言う「えびす」さんについて古書を纏めてみましょう。
「えびす」は「恵比須」「恵美酒」「恵比寿」「夷」とも書きます。
七福神の一人で、各地の神社に祀られる「恵比須」とも深くかかわりあいがあり、摂津国の、西の宮神社と、出雲の国美保神社を本社とする・・・・の二説があり、又祭神も事代主命・蛭子命とする両説があって確かではありません。
又、西の宮の蛭子の御前を「世に夷子三郎」と称せるは(伊弉諾尊の伊弉那美)の第三子とし海外に放たれたまひしより称する」とあり「吉野拾遺」にも、えびすの事を「蛭子と言けり」とあります。
西の宮神社は、俗にこれを夷の宮と称す。又大国主命または、その親類神を祀ると称せられ、従って、蛭子神、大国主命、又其の子事代主命、等々、夷子神の由縁は、諸説が区々で、軽々しく断ずることは出来ません。
(以上神道辞典より)
日本書紀・旧事本紀に見る記録
●次に日本書紀によりますと・・・・
(八家奥)「木場の前、第四十七代淳仁天皇の天平宝字(西暦760年頃)年中之を祭る(注天平は第四十五代聖武天皇の時代になります)と記されておりますから、従って、現在より約一千二百有余年前に祭られたものであります。
●木場村の前、海に至る、百歩ばかりで小島が有る。この島の上に一つの神社を建て、蛭子の宮を崇め奉る。毎年六月望の日(陰暦十五日)「名越の祓」をする、この日は国中の貴い人も、賤しい人も、競って、海の沙汰で体を洗い清め、お祓を受け、不潔を除き、身も心もすがすがしくさっぱりする。
今は遠い国々も、このお祓の事が聞こえ伝わって、参詣する人も多くなって参りました。
*「名越の祓」水神が山から下ると言い伝え、人、牛馬の水浴のみそぎ
●此の蛭子の神は生まれまして、三歳まで御足たたず、恰も蛭の如くフニャフニャであらせられたので天の「いはくす船」という船に乗せ奉って、海に流し捨てられなされた。それを西の宮の漁夫がお拾い申し上げ上げて養い、君として「三郎」と名づけお申し上げ「夷三郎」殿と申し奉りました。
或神道学者は「夷三郎」などと名づけお呼びするのは、神様をあくびったお名前であるから、只蛭子の宮と申し称えるべきであると語っています。
●旧事「神道大成経」には火寄子神は、天照大神の兄・夷蝦彦大神、後の火寄子神は天照大神の弟・夷蝦彦大神(同名である)といわれます。この神は、二生二流オノコロ島(淡路島)に鎮め奉られました。朝早くより火焼を仕事とされていたので「火寄子」と名のっていました。又、人家の竈を握ってあやつられる神であったため、天照大神は特にお目をかけて居られた。又神武天皇が東征の時、天皇の軍が矢を討ち尽して意気が上がらなかった時、稚根津彦神(海路を先導した神)が手箱の中より数万の矢を出され、皇軍は大いに力を得て逆賊を退散せしめられました。又食物が尽きると箱の中から出されて諸兵に与えられ、皇軍は大いに意気が上がった。天孫の命が、これを不思議がられて、"貴方は何故この様な神業の術が出来るのか"とお尋ねになると、稚根津彦の神は「今は、わけがあって申し上げられませんので強いてお尋ねくださいますな、後日申し上げましょう」とお答えが無かったわけですが、其の後天下が治まり、天孫の神が再び其のわけをお聞きになった時、稚根津彦の神は「私は天祖の初めの子で蛭子の神であります。」とお答えになった。今来て天下の政治を助けました。私は世の中の富に関する事を司っておりますが、今摂津の国の広田の西宮に祀られている神であります。此の事は旧事大成経に載せられている事であって「夷子の名は、逆賊を退治する程の強い力の神をあらわしているので、夷子の二字と夷の字は読みが同じであるからこう称えるのであろうと思われます。又日本紀の仲哀神功皇后記に、事代主神の事がこれとよく似ているので、更によく考えてみる必要があります。
播磨鑑に見る由緒と再建
●次に播磨鑑によりますと・・・・・・
① 鎮座地:白浜町宇佐崎小島
② 祭神:蛭子命(恵比酒さん)
宇佐崎より巳方(東南)十三町の処に在り、長さ五十七間、横二十四間の建物(神社)あり 抑々棲神川は此の大神(蛭子神)住んで居られた処の処に川と言う事で棲神川、即ち榎神川と呼ばれていました。近世、俗に八家川と言うのは説であります。
当社は、中世第45代・聖武天皇の天平7年、第47代・淳仁天皇の天平宝字癸卯(西暦763年)6月15日に始まるとあります。
「天平巳年6月15日、此の島先の足口に一人の神霊、駿馬に乗って海中より上り給ふ。是が則ち蛭子の神です。」と言い伝えています。山上に一つの神社を造り遷し奉る。然るに、元禄5年(西暦1692年)癸申年2月10日の夜、蛭子の宮の御神体が如何なることか、御行方が知れなくなり嶋主が、御神体の行方不明なる事を憂いなやみ、新たに神体を作り奉りて、朝夕拝み、丁寧にお祀りし、それから38年の星霜を経て、享保13年丙申年2月10日の夜、宮守の了源と言う者の夢に"山上より蛭子の命が召し給う"と不思議な夢を見る。彼、早朝に山上を廻り、神前を見ますと、相殿(同じ神殿の横の坐)の石の上に、一つの箱が封じて置いてありました。不思議に思った彼は、近所に誰か居るのではないかと、あちこち尋ねましたが、誰も居りません。
嶋主に事の由を告げて伴い、彼の箱を開き見ますと、馬に乗って居られる蛭子の命の御神体を拝し昔消失してしまっておられる昔の神形であることを知り、驚きました。
今38年の春秋を経て、神殿に帰り給うたことは、神妙霊験、常識を以て測り知る事が出来ません。それによって、蛭子の神を恵美酒と敬う事久しい事であります。
なお「旧事大成経」にも蛭子を恵美酒と言う説があります。人が皆、各々家業に従い、油断なく能く其の任を務める者には、幸を与え給う事ははっきり致しております。
近世神道の大いに降であって、此の道をよく研究する人が多く、神道大成経にも厩戸王子の真実書でないことを吟味して事代主命(大国主命の子)を以て恵美酒とするとあります。(この神は大国主命に出雲の国を皇祖に譲ることを進言された神といわれます)この神は大徳無双の神で、天に事代、国に事代と神武帝八神殿の内に祭られる神であります。又、海を往来する商船は、この神に祈れば風波の難を凌ぎ、幸を得て商の利を得られる。農耕の民が祈れば耕作に徳を得られる事ははっきりとよく分かります。神は祈る事に依って哀愍を垂れて下さり、人は神の力によって願いを果たす事が出来ることは当然の道理であります。
そう、それだのに神殿、拝殿等、破損その極に達しております。4年以前の8月朔日夜、不思議な夢に神霊を見、この故を以て神前に窺って思考いたしますのに、見た夢の様に山の上へ移し奉れとの神勅を黙止出来ず、此の慶神殿、拝殿を山の上に移しました。又南の沖中に石の鳥居を建立し、神噐となし諸々の船の川口の水深の浅い・深いを見やすくし、海底の岩石の乗り上げない様に標識とし、又別に神前の尾崎に、常夜燈を立てて闇夜風波より船を守り、川口を見かけて自由に航海が出来る様、守ることが大切であります。故に神殿修復、鳥居、常夜燈建立の為、士・農・工・商を問わず信仰の志より金銭品物を以て寄進して下さる人は全ての祈願は成就し、思うがままの御神助が有ることを疑はぬ者であります。
第115代・桜町天皇寛保3年(西暦1743年)癸亥年8月朔 謹志
と播磨鑑には記載されて居ります。
●「松原八幡宮の毎年の祭礼の前後一ヶ月の間は"宇佐崎の海岸一帯は殺生を禁ず"の立て札が立てられたそうです。それにもそく言えば"蛭子の神のたたりがある"と言い伝えられております」
確かではないが、古い昔の古書による言い伝えも何か本当のようでもあり、又夢のような物語で「昔をしのんで新しい宇佐崎を考える」一つの良い姿にしたいものだと思いませんか。
●浅学の為、以上の様な口語文・文語文の入り交った拙訳分になってしまいましたが、由緒ある古いお宮さんである事はご理解戴けたと思います。時代は大きく変革したとは言え、祖先が残してくれた文化財は受け継いでゆきたいものです。
●近い将来、宇佐崎自治体として、これが再建復興にとりかかり度く思います。再建の暁には宇佐崎の産土神様としてお祀りし、取締の管理により毎年一回、旧暦6月15日、盛大なお祭りを施行致し度い構想でおります。町民各位のご理解をお願いいたします。
尚、本書作成にあたり、有識者多数のご教示ご援助を感謝いたします。
発行日 昭和52年4月吉日
発行者 姫路市白浜町東区(旧宇佐崎村)
蛭子神社 再建への歩み(昭和57年〜平成元年)
再建に向けた現地視察(昭和57年7月)
再建計画の第一歩として行われた、小島山頂の現状視察の記録です。当時はまだ草木に覆われ、かつての参道も荒れた状態でした。
再建前の山頂と旧参道の姿
再建工事の記録(昭和59年〜平成元年)
基礎工事から社殿の組み上げ、参道と石垣の構築に至るまで、長年の歳月をかけた再建のプロセスです。職人と住民の熱意が形になっていく様子が確認できます。







































